業界に痕跡を残して消えたメーカー 表計算ソフト「VisiCalc」で世界を震撼させたVisiCorp




 1ヵ月ぶりとなる、業界に痕跡を残して消えたメーカーシリーズ。今週はVisiCorpを紹介する。もともとはPersonal Softwareという慎ましやかな社名で創業され、途中で社名を変更している。創業者はDan Fylstra氏とPeter R. Jennings氏の2人である。

マイコンで動作する世界初の表計算ソフト「VisiCalc」

マイコン向け表計算ソフトを開発した
Software Arts

 さてそのVisiCorpの話をする前に、Software Artsという会社を紹介したい。この会社は、Dan Bricklin氏とBob Frankston氏の2人により、1979年に創業された。そもそもBricklin氏は1973年にマサチューセッツ工科大学のコンピューター科学学科を卒業後、DECに就職するものの、1976年にはキャッシュレジスターを製造する会社に転職する(なぜかは知らない)。

 ただここに飽き足りなかったのか、1977年には退職してハーバード大で経営学修士を取得することにした。1978年からBricklin氏は再び学生となるわけだが、この講義を受けている最中に氏は表計算ソフトのアイディアを思いつく。

 当時講義の中で、さまざまな金融モデルの式にいろいろなパラメーターを与えてその結果を算出する、ということが行われていたらしい。

 これをするのに、黒板を升目状に分解し、おそらくは左端にパラメーターを書き、その次のカラムに数式を入れて、その次のカラムに計算結果を入れ、という形で行なっており、例えば計算結果が間違っていたらそのカラムを消して正しい計算結果を入れ、その結果を元に次のカラムの計算をやり直し、……という具合に講義は行われていたようだ。

 これを眺めていたBricklin氏は、「これをコンピューターでやらせればもっとスマートにできるのに」と閃いた。

 最初のプロトタイプは1978年の春、Apple II上で動いた。これに先立ち、ハーバード大のTSS(タイムシェアリングシステム:端末がたくさんぶら下がった大型コンピューター)上でBasic言語を使い画面レイアウトをいくつか試作し、アイディアが実際にコンピューターに実装できることを確信したらしい。

 できればマウスを使いたかったようだが、これはApple IIのゲームパドルを代用したものの、精度が悪くて自在に扱うのは難しいということで、最終的に矢印キーを使うことにした。ちなみに最初のプロトタイプは、Apple Basicで記述されたという。

 実はこのプロトタイプの開発に使われたApple II自身は、Personal SoftwareのFylstra氏からの借り物であった。Fylstra氏は1977年にハーバードの経営学修士を卒業しており、その意味では先輩/後輩の関係にあったのが最初のつながりだった模様だ。

 さて話を戻すと、最初のプロトタイプは表は固定(スクロールできない)で、機能も限られたものであったが、すぐにさまざまな機能が追加されていくようになる。こうした状況を見て、Bricklin氏とFylstra氏は契約を結ぶことになった。

 Bricklin氏(と、途中から開発に加わったFrankston氏)の2人は開発者としてこの表計算ソフトを完成させ、それをFylstra氏のPersonal Softwareが販売するというものだ。

 このプロトタイプは名前も決まっておらず、“Calcu-ledger”という仮の名前がついていた。この“Calcu-ledger”に関して、Personal Softwareは一般販売の場合は売上の35.7%、OEM販売の場合は50%をロイヤリティーとして2人に支払う、という契約になっていた。

 この率は現在はもとより当時としても異様に高いのだが、この金額は当時ハーバードの学生が使っていたTIの関数電卓(35ドル程度で入手できたらしい)にあわせたものだったそうだ。逆に言えば、Personal Softwareはこのソフトウェアを100ドル程度で販売することを目論んでいた、という計算になる。

 この契約が成立したことがきっかけとなり、1979年1月2日に2人はSoftware Artsを設立。したがって先の契約は、Personal SoftwareとSoftware Artsという2社での契約になった形だ。

 この当時、Personal Softwareはすでにいくつかのソフトウェアを発売していた。最初のものは、MOS TechnologyのKIM-1の上で動くMicroChessというチェスプログラムである。これはその後PET 2001やApple IIにも移植され、それぞれ発売された。他にもいくつか小さなプログラムを開発・販売していたようだが、そのあたりは正確にわからない。

 Bricklin氏の回想によれば、1978年当時で全部あわせても、Personal Softwareの売上は年間100万ドルに満たない程度だっただろうと推定している。ただなにぶんパソコンの創成期の話であり、おそらく当時としては最大のソフトウェアメーカーだっただろう、としている。その意味では、この表計算ソフトはPersonal Softwareにとっても大きな賭けであったのだろう。

 さて、Software ArtsではBricklin氏とFrankston氏が急ピッチで開発を進めていた。製品ターゲットはApple IIということでMOS Technologyの6502用のアセンブラで記述されたが、このアセンブラが動く環境はマサチューセッツ工科大学のMulticsだった。利用料金の高い昼間は寝て、割安料金で利用できる夜間にマサチューセッツ工科大学にモデムで接続してはプログラミングを始めるといった具合だったらしい。

 最初のバージョンはわずか1週間で仕上がったとBricklin氏は回想している。この最初のバージョンは制約が多く、例えば数字/文字は全部左詰で表示され、内部演算は金額計算の丸め誤差を防ぐためにすべて10進演算になっており、また浮動小数点演算をサポートしないなどがあった。

 もちろん、このままでは製品としてはいろいろ足りていないため、この後も引き続き開発は続けられている。その結果、当初は16KBのRAMで動作することを目標としたもののの果たせず、最小で32KBのRAMが必要となってしまった。






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